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『空母いぶき』作者・かわぐちかいじ氏、盟友・惠谷治氏(軍事ジャーナリスト)との思い出を語る

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2018年3月小学館漫画賞贈呈式にて
(左:惠谷治氏、右:かわぐちかいじ氏)


 2018年5月20日、軍事ジャーナリスト・惠谷治氏が亡くなられた。
 惠谷治氏は長年、世界各国の紛争地に赴き、情勢をリサーチする軍事ジャーナリストとして活躍するかたわら、かわぐちかいじ氏の漫画の制作に協力してきた。『兵馬の旗』では戊辰戦争の、『空母いぶき』では南西諸島での軍事衝突のリアリティを支えてきた。『空母いぶき』は2018年の小学館漫画賞を受賞。また、来年公開の劇場版『空母いぶき』にも監修として深く関わられ、大きな役割を果たした。しかし、残念ながら、公開を待たずして、この世を去られた。
 その惠谷治氏の幼少時からの友人でもあり、コミック制作を共にしてきた漫画家のかわぐちかいじ氏に、惠谷治氏の思い出を聞いた。



――まず、かわぐちさんと惠谷さんとの出会いをお聞かせください。


 僕は尾道市の向かいにある「向島」という島の生まれなんですが、幼稚園の時に東京から、同年代の少年が引っ越してきた。それが惠谷君だったんです。
 後で知ったのですが、惠谷君のお父さんが東京で結核か何かの病気を患って、気候のいい実家で療養するために戻ってきたとか。


――惠谷さんの一印象はどのようなものでしたか?


 東京から引っ越してきたというので、向島の子どもたちとは、ちょっと感じが違っていました。とにかく目立っていましたね。
 そのせいでやっぱりイジメられたみたいなことがあったみたいなんですが、惠谷君は負けん気が強かったので、全く卑屈にならずに、突っぱねる。そうすると、余計にイジメられるんですが、彼の場合は鼻っ柱が強くて、正面からぶち当たる。
 普通、友だちの中に入っていくためにすり寄っていく、みたいなことがあるのですが、それがなくて、周りのガキ大将たちにも一目置かれるようになっていってましたね。
 中学の時にも、先輩から「生意気だ」とかいって、鉄拳制裁みたいなことを相当やられたそうなんですが、それでも、屈しない。その性格は大人になっても変わっていませんでしたね。


――惠谷治さんとは、すぐ親しくなったのですか?


 小学校2年の時に、惠谷君と同じクラスになって、帰り道が途中まで同じだったので、一緒に下校するようになりました。
僕には双子の弟がいて、いつも3人で、話をしながら帰っていましたね。


――どのような話をされていたんですか?


 僕らは島の子ですから、海や山で遊ぶのが好きだったんですが、同時によく漫画を読んでいたし、映画も好きだった。父親が映画好きでよく尾道に映画を見に連れて行ってくれたんです。
 惠谷君とは、映画の話をよくしたのと、その当時、少年雑誌に載っていた「ゼロ戦特集」とか「戦艦大和特集」のような戦記物の話などをよくしました。テレビ放送していた『コンバット!』というドラマがあったんですが、ヨーロッパ戦線とか、ドイツ軍の話とかも詳しかった。惠谷君とは、そういった周りの友だちとはできないような偏向した趣味の話をしていましたね。
 小学3年になってクラスは分かれてしまったんですが、話をしながら一緒に帰るというのは、その後も続いていました。


――お互いの家で一緒に遊んだりもしていたんですか?


 僕の家から歩いて十数分くらいのところに惠谷君の家があったんですが、僕らが惠谷君のところに遊びに行ったり、彼が僕の家に遊びに来たこともあったと思います。
 一度、惠谷君の家に行った時に「面白いものがあるからちょっと待ってて」と、僕と弟を縁側で待たせて、奥に行ったんです。
 「西洋では、チーズってのを食べてるんだ」と言って、チーズみたいなのを持ってきて、僕らに食べさせるんですよ。
 当時の僕らは、島の子どもだから、バターは食べたことがあったけど、チーズは全然食べたことがなかくて。口に入れたら変な味がするので変だなと思ったら、本当はそれ、石鹸だったんですよ(笑)。
 大人になってからその話を惠谷君にしたら、「俺はそんな騙したりするような卑怯なことはしない。お前の妄想じゃないの」って言うんだけど、僕と弟が二人で主張するもんだから「もしかしたら、そんなこともあったかもしれない」って。
 「でも、『チーズはこんな形をしている。これは石鹸だけど食べてみるか?』とちゃんと言ったはずだ」って言うんで、僕も「そんなこと言われたら、俺も断ったはずだ」って。(笑)。
お酒を飲むとそういう話になるんですよ。


――弟さんと二人分の記憶があるわけですから、間違いないわけですね。


 弟と僕は、双子だから、二人で世界を構築するんですね。お互いに共通の記憶があるので、忘れないんですよ。
惠谷君は僕らのそういうところを見ていて、羨ましかったんじゃないかな、とも思いますね。
 そういえば、小学校の時に僕も弟も絵が得意だったので、尾道市の絵のコンクールで賞をもらっていたんですが、ある時惠谷君が「実は俺も一回だけ、お前らより上の賞を取ったことがあるんだ」って話し始めて。
 そんなことあったかなと帰って弟に聞いたら「ないなあ。惠谷は絵が好きで上手かったけど、いつも俺らの方が上だった」って。
 次に会った時に惠谷君に「弟も俺も記憶が一切ない」って言ったら、「お前ら二人でそういうんだったら、ひょっとしたら俺の妄想か!?」って(笑)。
 今となっては証拠品の絵もないので、わからないんだけど、彼も絵が上手かったし、もしかしたら受賞してても不思議はない。確証もないんだけど。


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恵谷氏との思い出を語るかわぐち氏


――その後も交友関係は続いたのですか?


 中学時代は惠谷君とは別の学校に通ったので、会うことはありませんでした。惠谷君はそのまま向島の中学校に通っていたんですが、僕と弟は越境入学のような形で尾道の中学校に入ったんです。
 高校時代は、尾道の高校に入学したのでまた一緒になりましたが、お互いに見かけたら挨拶するくらいで、仲良くつきあうことはなかったですね。
 惠谷君はラグビー部に入って活躍していたんですが、僕は絵画部に入っていて。
 高校を卒業後は、僕は明治大学の漫研に入って、学生の時にデビューしたんですが、惠谷君は早稲田に入って探検部のキャプテンをしているという噂を聞いていました。
 惠谷君も、僕が漫画家になったことくらいは聞いていたかもしれませんが、その後はしばらく会うことはありませんでしたね。


――その後、再会されたのはいつ頃ですか?


 今から30年くらい前、35、6歳の時に、尾道の高校の同窓会で、惠谷君と再会したんです。関東近郊に出てきている人たちが東京で集まったのですが、「今どういう仕事してるの」っていう話になって「軍事ジャーナリストをしている」って聞いて驚いたんですが、「さもありなん」と感心もしたんです。
 小学校の帰り道に、戦記物とかの話をしていたのが、そのまま実現している。
惠谷君も僕に「やっぱり漫画家になったのか」と。子どもの頃から僕と弟は、一緒に絵を描いていて、惠谷君も絵が上手かったので一緒に描いたりもしていたのです。
お互いに、方向性は違うけど、子どもの頃に確認しあった「やりたいこと」を捨てずにまっすぐ頑張って来たんだなあと話をしたんです。


幻の共作企画「ゲバラとカストロ」


――その同窓会の後は、よく会うようになったんですか?


 同窓会は年1回、30名くらい集まるんですが、その幹事を中心として「幹事会」の名目で年に何度か集まって、飲むようになっちゃって(笑)。
 惠谷君の持っている世界情勢のいろんな情報を聞くと面白いなあと思って。
 それで、40代の頃、ちょうど『沈黙の艦隊』の後くらいなんですが、惠谷君が「チェ・ゲバラ」とか「カストロ」とか、キューバ革命に興味があって、実際に取材でキューバにも行っていたんですね。
 僕も興味があったので「ゲバラとカストロの二人を主人公にした漫画を描けないかな」と話すと「面白いからやれよ。お前も一度、キューバに取材に行くか?」とか言われて。
 僕もスタッフと一緒にキューバに取材に行ったんです。
 現地のいろんなものを見て、ゲバラとカストロの生きていたリアリティみたいなものを見てきたんですが、ただ、教科書のように「ゲバラとカストロ」の話を漫画に描いても、日本の読者が食いついてくれるか、受け入れてくれるかというのがわからない。うまく漫画の世界を構築できるようなアイデア、たとえば何か日本人とキューバをつなぐ接点のようなものを探したんですが出てこなくて。
 二人でいろいろ話したのですが、この企画は、ちょっと難しい。せっかくキューバにまで取材に行ったんですが、結局「ひとまず棚上げにしよう」ということになってしまったんです。


――惠谷さんは1991年のソ連の崩壊も予言されていたそうですね。


 ゴルバチョフが「グラスノスチ」(情報公開)を始めた頃から、もうソ連はもうもたないんじゃないかと言っていましたね。
 ユーゴスラビアなどを通じて西側に流れる東側の情報などがニュースになりはじめたり、89年の「ベルリンの壁」の崩壊などがあって、ソビエトはもう保たないと。
 ソ連には当時、相当取材に行っていたので、わかったんでしょうね。
市場に物がないとか、経済が行き詰まっているとかを肌で感じて、これはもう市民の憤懣や不安感がいずれ爆発するんじゃないかと。


――やはり現場で調査するのが大事だということでしょうか。


 そうですね。それで、その後、僕も惠谷君と一緒に海外に取材に行くようになったんです。
 実際に取材したものをすぐ描くというのではなく、「知っておくといつかこれは漫画の役に立つだろう」と思ってのことですが。


――惠谷さんと一緒に取材旅行に行かれて、いかがでしたか?


 彼は旅慣れていて、英語、フランス語、ロシア語がなどが話せますし、世界の情勢も詳しく説明してくれたりするので、一緒に行くと本当に面白かったんですよね。
 たとえば、新しい町に行くと必ず地図を買っていましたね。日本で用意した地図ではなく、現地の地図を複数買って、突き合わせてみたり。
 ある時、ロシアで惠谷君が「カラシニコフ」という自動小銃のモデルガンを税関で持ち出そうとして、大騒ぎになったことがあるんですよ。
 カラシニコフは世界中にさまざまなモデルがあるんですが、彼はそれを全部集めるんだと言って、モデルガンを買って日本に帰ろうとした。
 「大変なことになるからやめた方がいいよ」と僕らが心配していると、「大丈夫だよ」と笑っていたんだけど、結局、税関で止められちゃって(笑) 
 向こうの方で「これは孫へのお土産なんだ」とか言って、大喧嘩しているような声が聞こえてきて(笑)。
 結局、無事税関を通れたんだけど、もしかしたら、ロシアの空港のセキュリティの厳しさを見るために、わざとやったんじゃないかとも噂していました。本人は「そんなことするわけない」って言うけど、たぶんそうなんじゃないかとみんなで笑っていました(笑)。


『兵馬の旗』と『空母いぶき』


――最初に惠谷さんが協力された『兵馬の旗』はどのような経緯だったのですか?


 「ゲバラとカストロ」は実現しなかったんだけど、惠谷君が資料や原案を提供するような形で、もう一度何かできないかということで、最初にやったのが『兵馬の旗』ですね。
 『太陽の黙示録』が終わってすぐくらいの時に、北海道に取材に行きました。
 漫画家は長時間、ずっと同じ部屋で仕事をしますから、現場というのを、なかなか経験できない。
 僕が「現場感覚」を知るために取材旅行であちこち行ったのは、惠谷君のそこに引きずられてた部分が大きいですね。


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小学館漫画賞の受賞記念パーティーの二次会で花束を手にするお二人。


――『空母いぶき』の企画は、どのような経緯で始まったのでしょうか?


 『兵馬の旗』が終わった時に、「何か違う題材で勝負したいね」と二人で話したんです。
 『兵馬』は、二人とも「戊辰戦争」については知り尽くしているわけではなく、勉強しながらやりましたので「次はもっと得意分野でやろうよ」と(笑)。
 「じゃあ、自衛隊もので行きましょうか」と、最初編集者と空母の話をしていて、惠谷君もそれは面白いとのって来たんです。


――惠谷さんは『兵馬の旗』『空母いぶき』に「協力」とクレジットされていますが、実際の作品創りにはどういう形で関わられたのでしょうか?


 『兵馬』と『いぶき』では少し違うのですが、まずは僕が作品を支えるいろんな情報や資料を自分でまとめて、物語を作っていくんです。
 僕は漫画家なので「真実」や「事実」よりも「面白いこと」をまず優先するんです。
ストーリーを創る上で「こうなったら面白い」というマンガチックな希望を、惠谷君にまず投げてみる。
すると、惠谷君は「そりゃ無理だな」とか「実際はこうなんだよ」「ありえない」と返してくるんです。
たとえば中国の人民解放軍の階級やシステムは昔と違って、今は改革されてこういう形になっているから、こう描くと間違いになるとか、そういうことを指摘してくれる。
 それに対して「でも、それでは漫画として面白くないから......」と。


――「事実」と「面白さ」のせめぎ合いですね。


 でも、実際は「漫画的で面白い」というのも、やっぱり何らかの「事実の裏打ち」がないと面白くないんですよ。
 漫画を描く人が「都合のいいこと」ばっかり描いても面白くない。「都合の悪いところ」を描いてこそ面白いというのもあるんです。
 だから、僕は惠谷君の言ってくることを、全面的にそのまま描くのではなく、そういう要素を「ハードル」として設定しながら、それをも乗り越えていくような感じで作っていく。 例えば「それは無理だ。自衛隊はそんなことしない」と惠谷君に確信を持って言われたとき、そこを無視せずに、それに取り込みながら、その上で違う展開でそれを越えていこうとする。それがすごく面白かったですね。


――惠谷さんの言葉で、印象に残っていることはありますか?


 『兵馬の旗』からもう10年くらい一緒にやっていますが、最近「ようやくフィクションとノンフィクションの違いがわかった」と(笑)。
漫画で必要なのは「事実か事実ではないか」ということではなくて、「物語として面白いか面白くないか」ということなんだという。
惠谷君がやっていたのは、真実を追求するということだったので、真実を追求しようというジャーナリストの本能みたいなのがあった。
一方で真実よりも「嘘でもいいから面白く」という漫画作りに協力していく、その「線引き」に、10年間くらい悩んでいたんじゃないですかね。


――「やっとわかってきた」というのは、すごく真面目で正直な発言ですね。


 「本当にそれでいいのかな。嘘になるかもしれないけど」って悩んでいたんだと思います。
 「事実」が面白ければ、それをそのまま漫画にしても面白いんですが、「事実」がつまらないと、面白い嘘をつかないと漫画にならない。
僕ら漫画家というのは、「嘘つきは漫画家の始まり」というくらい、その場を面白くするためにはいろんな嘘もつくし、話も「盛る」。
でも、惠谷君は正直で、全く嘘をつかない。
ある意味では生き辛い生き方をあえて選んだ人なんだという気がしましたね。


――漫画に関わっていくことを、惠谷さんは楽しんでいらっしゃったんでしょうか。


 どうでしょうね。そのへんは改めて話をしたことはないです。
でも、惠谷君も還暦過ぎたあたりから、「若い頃のように世界中の紛争地帯を駆け回って取材するのがキツくなってきた。日本にいて、こういう関わり方で仕事ができるというのは、よかった」とは言っていましたね。
 それと、漫画の制作の現場っていうのが、珍しかったんじゃないですかね(笑)。
 「どうやって話を面白くしようか」っていうのは、活字週刊誌の編集部とはまた全然違うので。


――『沈黙の艦隊』や『ジパング』『太陽の黙示録』などの作品に対して、惠谷さんが感想をおっしゃられたりしたことはありますか?


 「お前の仕事はお前の仕事、俺の仕事は俺の仕事」という感じで一線を引いていましたね。
 僕の作品に関する評価は一切口を出さなかったし、アドバイスもなかったです。
 もちろん、一緒にやるときは、お互いにいろいろ話し合うことはありましたが、お互いの独立した作品に干渉するということはなかったです。


――読んではいらっしゃる感じでしょうか?


 さあ、どうなんですかね。読んでいたんじゃないかとは思いますが、僕も干渉しないので、そのへんは聞いたことがないです。


「辺境」の現実を取材する


――幼馴染みと一緒に仕事をするのは、ビジネスとして割り切った関係よりも大変だったのではないですか?


 そうかもしれないですね。
 『兵馬の旗』で戊辰戦争を描いたんだけど、僕も惠谷君も東北出身の女性と結婚しているんですよ。僕らが育った尾道は温暖で住みやすいんですが、そういう場所で育った男には「温暖コンプレックス」っていうのがあるんだって、惠谷君は言うんです(笑)。
 ぬくぬく育つとろくな人間にならないというのがあるから、意識的に過酷で厳しい現実を求め、身を置きたいという願望があると。だから、奥さんも雪深い東北の女性を選ぶんだっていうんですよ。
 僕も、それはあるかもしれないなと(笑)。
特に惠谷君は「こんなに厳しい現実の中で生きている人間がいるということを知らないままではいられない」という、人間に対しての興味を持っているんだと思います。自然環境への問題意識や冒険心だけではなく、人間がいかに厳しい存在であるかというのを極めたいと。それを彼は「人間の辺境」という言葉で表していましたね。


――惠谷さんは早く亡くなられたお父さんに影響を受けているようですね。


 たぶん、惠谷君のお父さんは、小学校から中学校くらの時に亡くなったんじゃないでしょうか。お母さんが保険の外交のようなことをしながら、惠谷君と弟さんを育てたそうですが、そのお母さんも学生時代に交通事故で亡くなられたと聞いています。
 お父さんは軍人だったそうなんですが、その影響を相当受けたんじゃないかと思います。
 これは惠谷君からきちんと聞いていないので僕の想像の域を出ないのですが、陸軍将校として台湾かインドネシアで終戦を迎えた彼のお父さんは、東南アジア諸国の独立運動に協力したんじゃないかと。
 というのも、惠谷君は『快傑ハリマオ』というテレビドラマが好きで。これは日本人が東南アジアの独立を味方するという話だったのですが、このハリマオの歌をしょっちゅう歌っていたんです。
 その東南アジア諸国の独立運動というのも結局うまくいかなくて、協力した将校たちも終戦からしばらくして日本に引き揚げてくるんですけど、もしかしたらお父さんの無念を晴らしたいという気持ちを、子ども心に惠谷君も持っていたんじゃないかと。
 後年、軍事ジャーナリストになったというのも、お父さんの影響もあったんじゃないかと思います。
 もちろん、大学の時に探検部だったというのもあるので、世界の辺境を探検するというのは、当然といえば当然なんでしょうが、ただ単に南極とか北極に行くというだけではなくて、いわゆる政治的・軍事的な意味での「衝突」の現場である紛争地帯、いわば「軍事辺境」の現実を取材したいんだと言っていました。お父さんの影響というのが、そこにもあるんじゃないかと思いますね。


――お父さんが将校だったということですが、惠谷さんの家は武家のご出身だったのでしょうか。


 僕の家はもともと海運業をやっていた商人の家なので、サービス精神が多いんですが、惠谷君は純粋で「サムライ」のような気質がありましたから、そうなのかもしれませんね。
 「そういう生き方って大事だな」と彼から学んだ気がします。


――少年時代に出会って、別の世界に進みながらも、一緒に仕事をするというのは、憧れるようなドラマチックな関係性だなと、思いました。


 惠谷君自身が、とてもドラマチックな人だったですからね。


惠谷さんのご病気について


――惠谷さんは、今年5月にお亡くなりになられました。ご病気のことはどの時点でお聞きになられたのですか?


 惠谷君は去年(2017年)の6月に手術をしたんですが、その年の正月ごろに「体調が悪い」とは聞いていました。
 4月か、5月くらいに会った時には自覚があったんでしょうね「ちょっと検査してみる」と。検査したら膵臓がんだった。
 でも、たいてい膵臓がんはステージ2か3といった進んだ状態で発見されて、手術ができないことが多いらしいんですが、惠谷君の場合はステージ1だったので、手術ができるということで、6月に手術をして、一旦は復帰したんですよ。
 去年の暮れ、忘年会もこの仕事場でやったんですが、正月明けると、「やっぱり転移がみつかった」ということを言っていました。それまで、抗がん剤も錠剤を飲む程度だったんですが、これからは点滴になったと。


――今年の3月には小学館漫画賞を受賞され、映画化も決まりました。


 漫画賞は受賞して、本当によかったと思います。
 漫画賞の授賞式があった3月のその前あたりから、目に見えてかなり辛そうで。式でも寒いといって、コートも脱がなかった。その直後に「もう一度入院する」ということになって。それからは、あっというまでしたね。
 がんを発見して一年でしたが、その間も、『空母いぶき』をやってくれていました。


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小学館漫画賞贈呈式の壇上にて


――登壇されてスピーチをされていました。漫画家や原作者といった実作者ではない方は珍しいそうですね。


 普通はありえないんですが、漫画賞の実行委員会の方に了承していただいて。
 惠谷君は本当に喜んでいました。


――映画も完成したのを観ていただきたかったですね。


 そうですね。もう一年長く生きていられたら、映画を観れたと思うんですが......。


――ご病気と戦いながら、映画の監修にも尽力されたとか。


 きちんと監修してくれました。この映画が実現したのは惠谷君の尽力があってこそです。


――もし生きておられれば、今後、激動の時代にさらにジャーナリストとして活躍されたでしょうね。


 彼はソ連の崩壊を予言したりしましたが、北朝鮮や中国の情勢についてもエキスパートで確実な情報を持っていました。
 これからの世界にとって、もっと惠谷君は必要だったんじゃないですかね。
 本当にもったいないというか、惜しいことだと思います。


(2018年10月13日収録)


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惠谷治(えや おさむ)
1949年東京都墨田区生まれ、広島県尾道市育ち。早稲田大学卒。ジャーナリストとして、紛争や軍事、国際問題などの情報収集と分析を行い、冷戦時代のソ連、現代の北朝鮮問題などに関する著作多数。かわぐちかいじ氏の漫画『兵馬の旗』『空母いぶき』の監修・協力を行う。2018年5月20日、69歳で逝去。


かわぐちかいじ
1948年広島県尾道市生まれ。明治大学卒。68年「ヤングコミック」誌にて『夜が明けたら』でデビュー。87年『アクター』、90年『沈黙の艦隊』、そして2002年『ジパング』で講談社漫画賞受賞。 06年『太陽の黙示録』で小学館漫画賞および文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受章。現在、「ビッグコミック」に連載中の『空母いぶき』で18年に小学館漫画賞一般向け部門を受賞。同作の劇場版が19年公開予定。


(取材・構成/山科清春)
 

【2018/11/18】

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